富野作品と、宮崎作品の相違点、その一部

富野監督作品で、たったひとつの成功作「ガンダム」。それ以外の作品も数多く手がけたが、どれも大ヒットには遠く、マニア受けはしたが、一般層にはまったく受け入れられず、そのどれもが完全に記憶から削除されている。

 

一方、宮崎駿作品は、まずデビューからあまりウケは良くなかった。しかし、強気の発言や一貫した製作スタイルが、地道に評価を上げ続けた。その後は知れた通り。

アニメに興味のない層ですら、その名前を知らぬ者を探すほうが難しい。

スタジオジブリ」「宮崎駿」の名は、一般層に知れ渡り、メジャー認識されている。

そればかりではない。

アカデミー賞にノミネートされたのだ。世界が認めたと言ってもいい。

 

私は元ガノタだ。ジブリ派ではない。だが、良いものを否定する程、バカではないつもりだ。

 

富野も宮崎駿も、強気の発言では同じだが、出した結果が商業作品監督として、歴然とした差が出ている。

ふたりとも、アニメには同じように懸念を抱き、辛口の評価を与え、仕事として、ライフワークとしてアニメに関わっている。

 

だのに、この差がついたのはどういう事なのだろう?

それは色々な点に及ぶ。説教臭い作品を作る事でも似通っているふたりだが、説教のやり方がまるで違う。宮崎は「キャラの口で説教をさせない」のだ。見せて、わからせる。

 

富野作品は「何でも語らせる」とにかく、キャラの口から自分の理屈をこねさせないと気が済まない。

 

商業用映像作品監督として、どちらが正しいスタンスかは、もう語るまでもない。アニメは見て楽しむものだからだ。見てわかって貰えないのなら意味などない。だから、宮崎作品は大げさに言えば、台詞を削除された状態で、映像だけ見せられても、なんとなく映画の中身が伝わる。子供でもだ。どっちが悪い奴で、良い奴か。

何をしているか、サイレンス映画にしてもある程度はストーリーが追える。

 

だが冨野作品は壊滅だ。何をやってんだか誰にもわかるまい。サイレンスにされた瞬間、観客全員が退席するだろう。見る価値がないのだ。伝わるものが映像にないばかりか、やたら退屈なのだ。元ガノタが断言するから間違いない。

 

ふたりとも自分が「商業、ビジネスとしてアニメに関わっている」と明言している以上、売り上げの差、知名度の差は歴然とした上下関係と認識すべきだ。

間違いなく、宮崎駿のほうがやっている事が一貫しているのである。あくまでプロとしてアニメを作り、望まれたものを送っている。

それが富野には絶対に出来ないのだ。あくまで自分の描きたいものにこだわってしまい、そこから出られない。そういう作品を否定はしない。だが「あくまでビジネスとしてアニメを作っている者」としては、これは完全な間違いだ。言動が一致していない。

例えば、宮崎アニメでは、殆どの場合、ヒロインがなにがしかの「罪」を追う。ナウシカは蟲に関わったこと、シータは「間違った文明の王族の子孫」

サンは「もののけの側の姫」

クラリスカリオストロ家の「光」だが、それは「闇のカリオストロ」が無ければ光らぬもの。まだまだある。

全作品ではない。しかし、どこか「闇」の部分が必ずある。常に完全なように振る舞いながら、どこかで耐えている。

それを必ず主人公たちは許し、認め、救うのだ。王道である。

客が望むのなら、チープだろうが何だろうが、描き切るのがプロだ。

しかし、富野作品はどうだろう?複雑と言えば聞こえは良いが、どういう位置づけで把握すれば良いのか、漠然としてつかみどころの無いキャラクターばかりだ。

ぶっちゃけ「こいつ、一体何がしたいの!?」とツッコミを入れたいキャラばかりなのである。味方かと思いきや敵、はたまた味方とせわしない。

そこまで自由自在に振る舞う人間など居ようか?

富野はリアルに人間描写をする為、あえて敵味方、清濁、明暗入り乱れたキャラを作っているのだというのがガノタの理屈だが、これは間違いだ。人間、割と清濁の「濁」は認めない。そこまでごっちゃにならないのだ。

 

逆に言えば、まだ宮崎キャラのほうがリアルに近い。富野は考えすぎて、実際に存在しない珍妙な人格を持つ、変な精神分裂キャラを量産させやすいのだ。無論、宮崎駿本人も、リアルな人間の姿など描写しているつもりはない。かけ離れたものであるだろう。

が、結論として、このふたりのキャラを比べた場合、まだ富野キャラのほうが「ぶっちゃけありえん」精神崩壊を起こしている場合が多い。リアル、リアルと言い過ぎたのだ。突き抜けて、変な方向に突出し、もう戻れない位置まで行ってしまっている。

 

大体「子供が見て喜ぶアニメを」と作った最新のアニメの題名が「Gのレコンギスタ」だ。富野監督の親御さんが存命なら「息子さんが、こんな題で子供向けなんて言ってますが、どう思われます?」と真顔で聞きたい気持ちである。

俺が富野監督の親なら「莫迦かお前は!」と張り倒していただろう。

小学生が「レコンギスタ」と聞いて、興味が湧くか?一切持たない。理解の範疇にない言葉には興味を向けないのが正常な人間の姿だ。

小学生に「Gのレコンギスタって聞いて、どう?」と尋ねてみるがいい。頭の中身をまず疑われる。次の日から「異常者がこの近辺徘徊中」と親が警戒するだろう。

「Gのレコンギスタ」と聞いて、希望に胸が膨らむのはガノタだけだ。

小学生ではない。

それが富野には一切わからぬのだ。理解するつもりもない。自分の感性が通じない相手など、客ですらないのだろう。

 

富野監督は、ビジネスとしてアニメに関わる者として、初代ガンダム以外は全て「失敗作」しか世に送り出していない。そこを彼は断じて認めないのだ。

今の小学生に「ジブリアニメ」と聞いても、数作品は答えられる。

だが「富野」「ガンダム」で聞いてみても、首を傾げるだけだ。ダンバインエルガイムザブングルイデオン、全く通用しない。∀もZもだ。

富野は意味不明の理屈で、マニアを翻弄させては炎上させるのが得意なだけの、3流以下の「芸能人」に過ぎないと、俺は断言する。商業作家ですらない。ただの

「マニア向け炎上屋」でしかない。

 

「Gのレコンギスタ」せめて何かの手違いで、放映が中止されてほしい。

 

富野作品でこれ以上、言葉の迷路にはまりこむ迷走者が出るのは、正直元ガノタとして良心が辛い。